帰国子女の信仰問答

Plan, Do, Check, Pray

砂だらけの教室

教室の床が砂だらけ。部活生が運び込むことが多い。野球部員の机の下なんて砂だらけなことが多かった。あとはそう、雨が降った時だ。雨が降ったのだが、教員として勤めておそらく初めて、学校中の床が砂まみれになった。

今は体育祭のシーズン。本番に向けて全校生徒が練習中だ。世間では記録的な暑さが世を騒がせており、温暖化は既に臨界点を迎えたのでは、という不安になる議論も聞こえてくる。しかしそんなこととは切り離されて、人間の「日常」は今も普段通りに続いている。変わらずに大量消費の恩恵を味わい、変わらずにエアコンをつけて「涼んで」いる。

ある意味、学校というのはこの温暖化の異常さと、その問題を生徒に考えさせなければいけない機関だ。それでものんびりと体育祭を炎天下の中で楽しんでいるのである。

まあでも、体育祭に反対かというとむしろ賛成派だ。テストや補習などで勉強疲れしていた生徒達が楽しそうに体育祭練習しているのを見ると、こちらまで嬉しくなる。こういう行事は大事なのだと思わされる。

炎天下の中で熱中症にならないか心配だが、今のところは大きなことは起きていないので良かった。初日は朝早くに雨が降った。グラウンドは濡れてしまったが、むしろ温度が下がったので比較的涼しい気持ちで体育祭練習を迎えることができた。午後も曇っていたので助かった。

雨が降ったあとに全生徒がグラウンドで体育祭練習をしたため、学校の床はそこらじゅうが砂だらけ。「自分が学生の時もこんなことあったなぁ」と思いながら歩いていた。自分の高校でも雨が降るたび階段が砂だらけになるのが恒例だった。勤務校は掃除が行き渡ってるためあまりこういった光景は見 れない。珍しく砂だらけな床を見て懐かしんだ。

変化なくしては成長は起こりえない

今日もNicky Gumbel氏のデボーションよりコメント。

今回は有名で人気なあの箇所。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」 ‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭3:18‬ ‭新共同訳‬‬

この聖書箇所は自分にとっても救いだ。僕はとにかく自分のことが嫌いな自己嫌悪とコンプレックスの塊だ。そんな自分が「神のように変えられていく」という考え方は、自分を受け入れられるきっかけにもなった。自分が嫌いな理由は、自分の汚さや弱さが痛いほど分かるからだ。その不完全な部分が完全なものへと変えられていく。考えるだけでも希望に溢れている。

ちなみに、この「造りかえられていく」ことは、神の模造品になり、個性や自己の損失にならないのか、という疑問は当然湧いてくる。そもそも聖書の神に特定の性格みたいなものはあるのかも疑問だが。有名な牧師ジョン・パイパー(John Piper)氏がこんなことを言っていたのが印象的だ。「造りかえられていく、ということは個人の損失ではない。むしろ、神を通してその人の個性がより強く発揮され、用いられていくことだ。全ての根源は神であるが故に、全ての個性や性格も神を源にすることでより強く、完全に発揮される。」ちなみにこれは直接彼の言葉をケズィック・コンベンションで聞いたので、僕の記憶に基づく要約。

まあクリスチャンとしては何となく言ってることが分かる。自分の悪い部分というのは、むしろ結果的にそれがあって良かった、というふうに用いられていく気がする。もちろんそこには、善いことを望み続け、自分の罪を嫌って成長しようとする姿勢がないと起こらないと思うが。

Nicky Gumbel氏のデボーションには毎回最後にPippa Addsというコーナーが出てくる。PippaはNicky氏の奥さんのことだが、このお方が添える一言がまた良い。男性視点の旦那さんのデボーションに女性視点の一言を加えたりしてくれていて、足りない部分を保管してくれている感じがある。そしてPippaさんは読んだ聖書の言葉に対して正直に弱さを告白してくれたりする。だからとても共感しやすい。

今回は珍しく、冒頭の聖書箇所に対して一言だけ簡潔に書いていた。

Without change, there is no growth. (変化なくしては成長はない)

先輩教師の一人がよく口にする、「停滞は退化に等しい」。

変化というのは怖いものだ。我々人間は安定を求めがちであり、変化の少ない日常を求める傾向にある。しかし、脳医学的にも示されているらしいが、変化こそ人間を活性化させるもの。変化がないと人間は退化していく。今後も成長を求めるという意味で、変化やチャレンジを積極的に求めていきたい。

夏は終わるけど温度は夏のまま

「やっと終わったね」

そんな一言が多かった。やっと補習が終わった。後半は毎日3コマ担当。普段の授業数とあまり変わらないので結構キツかった。

生徒たちも目に見えて疲れていった。日に日にテンションが低くなっていったし、物凄く授業しにくかったクラスもある。違う学校では補習やっていない、という会話も聞こえた。まあ、間違ってはない。模試の結果が最近届いたのだが、結構良かった。平均偏差値が例年よりもかなり高かった。補習があるから、とは言わないが、ゴリゴリ勉強させられている成果はちゃんとあるのだと感じて欲しい。

今年の夏はかなり暑かった。世界中から火災のニュースも聞こえてくる。地球はもはや燃えている状態ではなかろうか。やっと温度が下がり始めたとは思うが、まだまだキツい。夏休みは終わったが、温度は夏のまま。ある意味、最悪の状態である。

そろそろ体育祭の時期になってくる。生徒も教員もこれでちょっとは気分が盛り上がったらいいな。体育祭をした結果、コロナの集団感染で休校になった学校のニュースもちらほら聞こえてくるため、こちらも同じことにならないことをひたすら祈る。あと、やっぱり暑い。熱中症にはとにかく注意しないといけない。

いつまでブレワイの壁紙なんですか?

僕は授業でプロジェクターを使う派だ。色々と便利で時短にもなるのでもうプロジェクター無しで授業なんてしたくもない。iPadを画面に繋いで授業をするのだが、その時必ず見えてしまうのがホーム画面の壁紙だ。

僕は壁紙をゼルダの伝説 ブレスオブザワイルドの壁紙にしている。続編(ティアーズオブザキングダム)が発売する前だったので、そのワクワクを楽しむためにも壁紙にしていた。もちろんゲーム付きの生徒も反応する。

だがもうティアキンが発売してから数ヶ月が経っている。とうとう「いつまでブレワイの壁紙なんですか?ティアキンのにしないんですか?」と言われてしまった。確かにね、自分でも思ったことはあるのだが、そこまで壁紙に気を配る人間でもなかったからずっおブレワイのままだった。そろそろ変えるか。

ゲームが好きなことは少しはうりにしようかな、と思っている。職員室の机きにもポケモンやゲームグッズをさりげなく置いている(好きな生徒は反応してくれる)。オタクが反応する本も置いて、反応した子には「貸すよ?」くらい言ってあげたい。

教師の義務は教えることである。オタクの義務は相手が沼りそうなコンテンツを共有して沼らせることである(?)。

どこまでもやる先生

教師という職業はそもそもブラックだが、生き甲斐や情熱を感じて働く先生も少なくない。

というか、そんなものがないとやってられない。自分もそうだ。

それでも仕事への入れ込み具合はもちろん差が出てくる。超ワーカホリックな先生方もいる。

朝来たら既にいて、警備の方に追い出されるまで職員室にこもって夜遅くまで仕事する先生もいる(せざるを得ない状況もある)。

今日はまた驚いた。

僕は運動部の顧問だが、同じ部活の顧問はそれなりにいる。そして中に入って何時間も一緒に練習してあげる先生がけっこういる。僕は未経験のため、ほとんどやらない。見ているだけだ。やりたいという気持ちはあるがまだ行動には起こせていない。

同じ部活の顧問(担当学年は違う)が、練習に入るだけではなく、入部式や退部式をかなり力を入れてやり、保護者を集めて部活指導に巻き込み、更には写真や映像を集めたDVDまで焼いていたのだ。

ここまでやるか、と。いや凄いよ。ここまで手を掛けてもらえる生徒もその保護者も嬉しいだろう。でもそこまでやるものか?自分の時間は持てているのだろうか?非常に謎である。週末もほとんど部活指導しているし、積極的に色々な大会に参加させている。

授業準備の時間は?プライベートは?寝れてる?

よくワーカホリックな先生は「趣味ですから」って答える。分からなくはない。でも、生活のほぼ全てを教師として費やして、それって健全なのだろうか?僕は疑問に思ってしまう。もちろん問題ない場合もある。でもそれは教師本人の人格形成にとって、そしてその献身ぶりを見せつけられている生徒にどんな影響を与えるのだろうか?

答えは分からないがこれからも考えていきたい。

自分も情熱や使命を感じて教職についている。でもそこまでの自己犠牲はできていないし、するとも思わない。

ある先生が、「いや、君は専任になるための自分磨きに徹するべきだよ。自己犠牲的なサービスは教師としての能力が成熟してからで良い。」と言ってくれて今も踏みとどまれている。

皆さん、今週もお疲れ様でした。

教員にとってスタバは「危険」な場所

午前中は補習、午後は部活指導。それで一日が終わる。夏休みなのに。

それでも一般的な社会人と比べたらマシなのかもしれない。まだ夏休み中の補習期間でしかないため、授業は半日で終わるし、そもそも夏休みがあるということは社会人にはない、まとまった休暇があるということ。まあ普段は朝早くから夕方まで授業をし、お金にならない部活指導サービスを夜までし、さらにそこから21時くらいまで授業準備、という1ヶ月の残業時間が余裕で100時間を超える忙しさなので、決して楽だとは思わない。

まあそれはともかく、今日は部活指導がない日。スタバにでも行ってゆっくり作業をしようと思った。というかこのブログ記事は今、正にスタバで書いている。家よりは学校にいるほうが仕事は捗るのだが、職員室は落ち着けて仕事ができるわけでもない。そんなわけでたまに抜け出してリラックスしたり、違う場所で作業するのは結構大切な時間だ。

しかし、教員にとってスタバは危険地帯でもある。

そう、勤務校の生徒に遭遇する可能性はけっこう高い。生徒だって午前中しか補習がないのだから、午後は友達や恋人と一緒にカフェやらファミレスやらに行くものだ。マックに入って、勤務校の制服が見えてすぐにUターン。何度このUターンをしたことか。オフモードの自分をあまり見られたくないので、学外で生徒を見かけたら僕個人は避ける行動を取ってしまう。「あ、先生、どうも」と言われても気まずいのだよ。

というわけでスタバにいるのだが、案の定、生徒に遭遇してしまった。「先生」と小さく聞こえたので目を向けてみたら二つ隣の席に生徒が。普通だったら気まずかったり緊張したりして近くに座るのは避けそうなのだが、「よく先生の近くに座れたね」と聞いてみたら、どうやら間に座っていた人が席を立つまで気が付かなかったらしい。

しばらく読書を続けていたが、こちらをチラチラ見てくるので「気まずいでしょ」と聞いたら「気まずいです…」と。そうよね。僕も気まずい。 というわけでドリップコーヒーのおかわりを注文したついでに新しい席を見つけて移動した。来た時は混み合っていたのだが、ちょうど空いている席が多かったので助かった。隣はまた学生。近所の有名な私立高の制服。まあ勤務校じゃないので気にならないが。

生徒も勉強をしていたが、これでちょっとは集中できるだろう。いや、僕が消えればむしろ安心して遊べるのかな?どっちでもいいが。

そういえば最近はスタバのスイカフラペチーノが話題だが、個人的にはエスプレッソ・アフォガート・フラペチーノ(って名前だっけ)が気に入っている。コーヒーらしく苦味もあるフラペチーノ。コーヒー好きにはオススメ。

さて、ちょっとは授業準備でもするか。

夏休みで減ったマスク

夏休みが終わり、

…いや実際はまだ夏休みなのだが、補習は始まったらもう授業みたいなものなので実質的には終わりだと考えて、

………夏休みが終わり、気がついたことがある。

生徒のマスク着用率が一気に下がったのだ。

今年度からマスクはもう個人の判断になったわけだが、日本国民はまだまだマスクを使い続けている。

news.yahoo.co.jp

正直、日本社会では驚くレベルでまだまだ着用率が高い。これは色々な問題を孕んでいると思うのだが、まあそれは一旦置いておいて、教員として意識していたのが「生徒のマスク着用率」だ。不安な生徒もいるだろうし個人の判断は尊重する。でも、「顔を見られたくないから」「恥ずかしいから」マスクを外せない生徒が多いのではないか、という不安がある。もしそうだとしたら、マスクは生徒の精神的発達に大きな影響を与えていることになるし、対処しなければいけない問題になる。

個人の体感なので信憑生があるとまでは言わないが、感覚的には女子の着用率が高かった。

しかし、今は夏休みが終わって補習中なのだが、戻ってきた生徒たちの多くがマスクを外していた。ちょっと驚いたが、もしかすると自然な現象なのかもしれない。夏休みはそりゃ遊ぶだろう。家で過ごす期間も多いだろう。そんな時にマスクが鬱陶しく感じ始めるのは分かる気がする。

生徒達にとって社会的活動のほとんどは学校で起こる。学校では色々と気にしてマスクをつけていたが、家やプライベートな遊びではマスクをつける必要性が減るのかもしれない。そして夏休み中にマスクを外す時間が増え、マスクをつけないことがやっと当たり前になってきたのかもしれない。そうだとすると嬉しい変化だ。

あと、単に夏になって暑いからマスクを外すようになったのかもしれない。